2008年10月16日木曜日

10/16 Today マリー・アントワネットの処刑(1793)

可哀想なマリー・アントワネットがギロチンにかかる:
マリー・アントワネット - Wikipedia: "マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリッシュ(仏: Marie Antoinette Josepha Jeanne de Lorraine d'Autriche, 1755年11月2日 - 1793年10月16日)は、フランス国王ルイ16世の王妃。
ハプスブルク=ロートリンゲン家の出身で、オーストリア大公マリア・テレジアとその夫である神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの十一女。結婚前のドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(独: Maria Antonia Josepha Johanna von Habsburg-Lothringen)。フランス革命の混乱の中で革命政府から死刑判決を受け、ギロチンで斬首刑にされた。"


いろいろ誤解された女性であ
った。例の「パンがなければ……」発言にしてもそう:
マリー・アントワネットは、フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したと紹介されることがある(ルイ16世の叔母であるヴィクトワール王女の発言とされることもある)。原文は、仏: “Qu'ils mangent de la brioche”、直訳すると「彼らはブリオッシュを食べるように」となる。ブリオッシュは現代ではパンの一種の扱いであるが、かつてはお菓子の一種の扱いをされており、バターと卵を普通のパンより多く使った、いわゆる「贅沢なパン」である。お菓子ではなくケーキまたはクロワッサンと言ったという変形もある。なおフランスにクロワッサンやコーヒーを飲む習慣は、彼女がオーストリアから嫁いだ時にフランスに伝えられたと言われている。
しかし、これはマリー・アントワネット自身の言葉ではないとされる。ルソーの『告白』(1766年頃執筆)の第6巻に、ワインを飲むためにパンを探したが見つけられないルソーが、“家臣からの「農民にはパンがありません」との発言に対して「それならブリオッシュを食べればよい」とさる大公婦人が答えた”ことを思い出したとあり、この記事が有力な原典のひとつであるといわれている。庇護者で愛人でもあったヴァラン夫人とルソーが気まずくなり、マブリ家に家庭教師として出向いていた時代(1740年頃)のことという。
アルフォンス・カーは、1843年に出版した『悪女たち』の中で、執筆の際にはこの発言は既にマリー・アントワネットのものとして流布していたが、1760年出版のある本に「トスカーナ大公国の公爵夫人」のものとして紹介されていると書いている。トスカーナは1760年当時、マリー・アントワネットの父であるフランツ・シュテファンが所有しており、その後もハプスブルク家に受け継がれたことから、こじつけの理由の一端になったとも考えられる。
実際はこれは彼女を妬んだ他の貴族達の作り話で、飢饉の際子供の宮廷費を削って寄付したり、他の貴族達から寄付金を集めるなど、国民を大事に思うとても心優しい人物であった。

ブリオッシュについて
ブリオーシュとも書く。形が王冠に似ていることから『王の菓子』と呼ばれている。当時のフランス法には、「食糧難の際にはパンとブリオッシュを同じ値段で売ること」となっていたとの説もあり、そのことがこの発言伝説の下敷きのひとつになったとも考えられる。ちなみに、ブリオッシュがバターや卵を利用したお菓子とほぼ同じとみなされるパンを示すようになったのは18世紀後半からであり、18世紀初頭まではチーズやバターなどの各地方の特産物を生地に混ぜて栄養性と保存性を高めた保存食という乾パン的位置づけであるため、その元ネタとなる発言は時代によって大きく意味が異なることには注意したほうがよい。そのため、ルイ16世の妃の発言説だと、当時の為政者としてはごく当たり前な(むしろ民衆を気遣う内容の)発言であったのを後世の人間が歪曲して引用したということになる。

補足説明すると、当時は西インド諸島からの砂糖の大量流入で、砂糖は安かった。当時の人は一日消費カロリーのかなりのパーセンテージを砂糖から摂取。朝ごはんはミルクと砂糖を沢山入れたコーヒー(カフェオレ)を街角の立ち売り屋で買って飲んで済ます人も多かった。

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